ちょっとした親切でも仕事の雑務でも何でもそうだと思いますが「見て見ぬふりは」習慣化するなと思いました。これ、ほんとに。
ちょっとした手助けなんて、正直めんどくさくてスルーすることって多々あるでしょ?でもそれが積み重なると見過ごすことに慣れてしまって、何も感じなくなるというか。
うーん。何も感じないことはないけど、手を出さない理由作りが上手くなってしまう感じかな。「○〇さんがいつもやってくれるから大丈夫でしょ」「あの人困ってそうだけど、何も言わないし大丈夫かな。いや、むしろ自分で何とかしたい人かも」ってな感じ。
よく周りの目線が気になって動けないとか、躊躇するとか言いますけど、私が思うに一番の弊害は自分自身が積み上げた習慣(手を出さない、目立たない)を破ることに躊躇しているのではないかと。
これ、すごく悪い習慣だと思いません?「いざというときには!!」と思うかもしれませんけど、些細なことでも日頃やってないことは多分できないです。正確には自分の踏ん切りがつく前に、日ごろから実践している人に先を越されます。
つい先日の話ですが、子供とおく様と一緒に公園に遊びに行った時の事です。とあるお母さんとその子供達でしょうか。数人が木に引っかかった凧を外そうと悪戦苦闘していました。
それを見た私は・・・声すらかけず遠巻きに観察していました。近くを通り過ぎたにも関わらずです。。。
ちなみに私のおく様は同様の状況で助けに行こうか迷ったようですが、別のファミリーが助けに入っているのをみて身を引いたとのこと。
その後、おく様から私がまったく助けに行く素振りを見せないので、”人助けに関してどう考えているか”をテーマに口論になりました💦
私も助けに行った方がいいかなとは思いましたけど、行動に移すほどには思いませんでした。ただ、おく様との口論を終えて冷静になり、はっ!!としたのが、この“行動に移すまで思う”ってなに?
”困りのレベル”で気持ちが動くとしたらそれはそれで何か悲しい。言い方を変えれば軽い困りごとに関しては「それぐらいなら自分でできるでしょ。頑張りな!」的な態度なわけですよね。
仮にこんな感じでも、困りのレベルが高い人を日頃バリバリ助けているような状況だったら納得ですけどね。
おく様との口論を終えて、自分なりに落ち着いた答えとしては「難しく考えず、困っている人には手を出してあげる、それで自分も気持ちが良くなればそれでOKだよね」と。
その後、不思議なもので身の回りにも些細な困りごとはたくさん転がっていることに気付き始めます。職場でもプライベートでも、ちょっとした手助けができる場面って結構あるものです。そういう視点で物事を観察するようになるのでしょうかね。
コピー機がピーピーなっている(用紙の補充か紙詰まり等のエラー)のに誰も動く気配がない時、目の前での落とし物する人、職場の案内図見て迷っている風な人、自動扉でなぜか引っかかっているベビーカー押している婦人、などなど。
そんなちょっとした手助けができる時は「見て見ぬふり」ではなくて「助けてあげようよ」と。ようやくそう思えるようになってきた今日この頃。
感謝されると結構気持ちのいいものです。そう思いません?私は最近そう感じています。
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